昭和五十四年十一月二日 朝の御理解


御神訓 「神は声もなし形も見えず疑わば限りなし恐るべし疑いを去れよ。」


 お道の信心は、神様を確信するというか、絶対のものとして頂けれる稽古だと思います。そこで「実意丁寧神信心」という事が、お道の信心の、これは特別の在り方を、そういう言葉で示しておられますけれども。その実意丁寧神信心、という事が。私は、教えに忠実でなからねば、ならん事だと思います。ね。
 教えを実意を持って、しかも丁寧に、ね、頂いていく信心。それを実意丁寧神信心、とこういう。そんなら、お道の教えというものが、例えば、教典に現れております神誡、神訓、御理解という。今度また、教典の編纂がありまして、これに沢山、教祖様のみ教えが、今度また、加わるそうですけども。
 加わったに致しましても、教祖様のみ教えは、難しいものはない。平易である。誰でも行じよう。頂こうと思うたら、行じ頂かれるような、み教えばっかりなんです。難しい事はないのです。問題は、その実意丁寧が足りないところに、それが疎かになってくるわけです。ね。
 例えば、御神誡、というと何か、こう、いかめしい厳しいもののように思いますけども、なら、仏教とかキリスト教でいう、五戒とか十戒とか、とても人間生身の、ものだけでは、とても行じられない。といったようなみ教えは、も、一か条とてないです。見易う出来る。
 だから、それが私共の信心生活の上にです。その、昨日の御理解じゃないけど、身に付くという事なんです。そこに金光教の御信者ぶり、というものが、自ずと出来てくる。ね。御信者ぶり、という家庭環境も、そのようなふうになってくる。
 お仕事の在り方の上に於ても、やはり実意丁寧神信心が、そこのお店なら、お店の看板のようになって、こなければいけんのです。ね。難しい事なのに、どうも私共が、疎かにして、そして、「おかげが受けられるの、受けられないの」というような事になっては、も、はなはだもって、「神様に対して相済まん」という事になるのです。
 ですから、初めの間は、お道の信心に入った、教えを頂いた。で、その教えを、ま、行の上に現わして、ね。自分のものになるまでは、ま、ぎこちないかも知れませんけれども。それが、いよいよ身に付いていく事に、「命をかける」というかね。一生懸命という事。その事に「一生懸命なる」という事であります。
 これは私は家の子供達の上に、それを思いますんですけども、今日も、しきりに、それを思わして頂いとったら、ここん所のみ教えを、頂いたんですけれども。今朝も、朝の五時の御祈念が、十分遅れましたですね。十分ですけれどもね。十分遅れるという事は、もし、これが汽車であるならば、も、「乗り遅れた」という事になるのですよ。
 信心は、まだ、もっとそれよりも、いうならば、はっきりした事が、言えるのが信心です。神様を確信する。神様を信ずる。とか、という事は、そうなんです。ね。汽車が、あの人が遅れちゃるから、まあ、十分間待とうか、てんなんてん、な、ないでしょうもん。
 神様も、もっと、そうなんです、ね。これは、私共の四人の息子達が、まあ神様は、「士農工商」と言うて下さって、ね。私が、教祖金光大神の信心を頂いて、いわゆる、その教祖金光大神の信心を、いうならば、ま合楽的に、合楽理念に基づいて、皆さんに聞いてもらう。その合楽理念も、マスターさせてもらう。一通り覚えさせてもらうと、これは、「これだけはでけん」と言うのは、ひとっも、一ヶ所だってないです。
 しかも、合楽の場合は、調子に乗ってくるですから、リズムに乗った楽しい生き方が出来て、その楽しい生き方そのものが、生活のすべてという事になるのです。ね。そこに「合楽の信者ぶり」というものが生まれてくるんです。そして、なら一番、いわゆる身近な、私の子供達の上に於てもです。なかなか決して、「難しい事は」言わん。ね。
 これは、もう何十年も前でしたけども、まあ、これは、ま、どうでも行かなければならない、修行しなければならない事で、ま、修行させてもらったんですけども。若先生が親教会で、一年何ヶ月だったでしょうか、修行に参りました。も、これは、そうしなければならんから、した。
 それは学院に行かなければ、お道の教師の資格が取れないように。これは、そうしなければならんから、そうしたんですけれども。もう殆どの、ま、教会では、息子を、なら、息子自体を厳しい所に、躾をしてもらう為に、修行に出しますね。または、そのお父さん、というか、その師匠は、やはり自分の子供を厳しく、信心の躾を致して、二代、三代に、いよいよ「粗漏のないように」という心掛け、思いから、そういう躾を致します。
 私は、ある時に、子供達の修行をどっか、今の、いうように、厳しいお教会に預けて、しばらくでも、「信心の躾をして頂こうか」というふうに思うた事があった。そしたら神様が、あの、丁度、善導時に、お参りしとる途中で、でしたから、あの耳納山の頂上を、ずうっと下さってね。
 例えば、下から登らねばならない。というような難しい事は、「もう要らん」と、神様はおっしゃった。ね。うちの子供達に限って、うちの子供達じゃなくて、うちの、いうなら二代を継ぐもの、ま、ここでいうなら、若先生がそうです。
 もうそんな、いうなら、下から登っていかなければならん。なら、高良山から、ずうっと登って、発心の上まで、こう、ね。もう平易な道でしょうが。今は、もう、自動車が通るくらいです。ね。その道を間違いなく歩いて行けば、それで良い。という事を頂いた。
 だから、もし若先生が、ははあ、「これは楽な事だなあ」と、「これなら誰ででん出来る」といったような考え方をしたら、大間違いだ、と思うですね。ね。たとえて、いうならば、朝の五時なら五時の御祈念を、これは、ね。例えば、一分だって切ってはならん、という心掛け、難しい事ではないでしょう、ね。
 水の行をせなん、火の行をせんならん。どうせんならん。ただ、これだけは、んなら御本部参拝をするのに、何時の汽車に乗らなならん、というのと同じ小となんです。それまでに、ちゃんと心掛けして、その汽車に間に合うように準備をするでしょう。
 朝の御祈念、いうなら五時には、それこそ、一分一秒だって間違わんように、きちっと出られるように準備をしとく、という事が、難しい事でしょうか。その難しくない事が、いうならば、曖昧になっております。これは、なら、んなら、もう朝の御祈念だけしたら、もう、それで良いか、というのじゃありません。ね。
 合楽でやはり、いうなら、私の後を継いでくれるなら、私の代行をしてくれる修行。それも出来たり出来なかったり、ね。ここでもし、会合やらがあるなら、会合にも出席、それだけの事なんです。ま、形の上の修行は、勿論、なら「教えに忠実である」といったような事はね。また、別ですけれども、その教えに忠実である。と言う事であっても、今も、申しますように、ね。難しい所はひとつもないのだけれども、そんなら、ひとつも教えが身に付かない。これは、みなさんの場合であります。
 だから、問題はね、それに命を賭けるという事。例えば、私が四時なら四時の御祈念にです。ね。命を賭ける。もう一秒だって、間違いません。他の事は、どんなに崩れても、これだけは、間違わない。これだけは、もう、お天道様のごと正確だ、という位に、ね。あれもこれもとは言わん。これだけの事。
 なら、ここの二代なら二代として、ここの息子達なら息子達としての修行と、いうものが、ね。これがお酒屋さんであるならば、ね。仕入れにも行かにゃん。配達もせんならん。集金にも行かんならん。それだけの事なんです。ね。集金に行かやん所に行かなかったり、仕入れに行かやんとこを放任したり、そうと同じような状態が、今の合楽の状態。それが段々、良くなって行かなけりゃ、ならん、という事。
 皆さんの場合でも、そうです。これ程見易いみ教えを、毎日毎日頂いておって、どのみ教えが、皆さんの血肉になっているだろうか。これだけは、いわゆる、お道の信心ぶりに、なっておるだろうか、とやっぱり思うてみなきゃ、いけません。だからね、もう「実意丁寧神信心」という心を欠いだら、そんな見易い事でも、かならず粗漏になってしまうのです。ね。
 だから、せめてこれだけ。この事だけは、と、ならば、その前に、ちゃんと準備万端整えて、そして余裕のある汽車を待たしてもろうて、それに乗り込ませて頂いて、目的地に行って、そして、用を果たして帰ってくる。それだけの事なんですよ。
 それを神様は、どうも言いなさらん。今日の御理解じゃ、ないけれども。「眼には見えんけれども」とこうおっしゃる。眼には見えん。何ともおっしゃらんのだけれども。私共の方が、その生き方を、身に付けさせて頂くところに、神様が、それこそ形の上にも、それこそ声ない声をもって、形のない形をもって、示し現わして下さるのが、おかげなんです。ね。
 昨日、御月次祭には、三千三百余りの、三千二百何ぼの、お届けがあります。もう昨日は、もう一日ずうっと、向うの方でも、三人の先生方が、私が四時半にさがっても、まだお届けが出来ないくらいに、沢山ございました。もうとにかく、お祭りに引き続いてでした。そうでしょうね。ここで三千何百という人を、お届けせんなりませんから。ね。
 合楽の場合は、おかげを頂いて、段々、日勝り月勝り年勝りに、段々、おかげを頂いております。ですから、それが、また代勝りに、おかげを頂いていく事の為に、合楽理念をマスターする。その合楽理念の実行しなければ、ならない事は、なら、私の息子達で、いうならばです。私が、朝の時間をこのように大事にする、のですから、なら子供達も、朝の時間をこのように大事にする。それは難しい事じゃないって。汽車に乗るぐらいなもの。間に合うように乗るぐらいな事だ、という事なんです。ね。
 どうして、なら、三千何百のお届けがあるか、というと、遠隔地からのお参りが、大変多いのです。もう昨日なんかでも、もう、お広前半分は殆ど、遠隔地の方達が、早く参って来とりますから、もう占めておりましたでしょうが。で、その方達が、ね。教えを実行してるんです。というのは、[日参 教聴 心行 家業の行]とここで言われます。これだけは身に付けなければいかん。[日参 教聴 心行 家業の行]。いよいよ日々を、合楽理念の実験実証者として、今日も、おかげを頂かして下さい。
 サア山口、または大分、宮崎あたりから、毎日、日参する訳にはいきませんから、日参のつもりで、毎日、お初穂を奉ってあるんです。だから、月に一回しか参って来れない遠隔地の人は、、いうならば三十日間のお初穂を持って来るんです。ね。だから、そんなに多いんです。実行してるんです。
 教聴は、とにかく、おかげの泉を、一日に一回だけは読む。これが教聴という事。いうならば、ね。お参りが出来ないから、お参りに替わって、毎日、お日参りをさせて頂いたつもりで、お賽銭を奉る。お初穂を奉って、それが一ヶ月に一回なら一回、お参りをして来る時に、お供えをなさる訳です。
 ですから、そんなに沢山あるわけです。ね。三千何百という数に、上るのです。毎日、ここで、日参をしておる人達がです。ね。果たして、なら、日参はでけておるけれども、教聴はでけておるけれども、それを生活の上に、いよいよ合楽理念の実験実証者としての、日々が出来ておるだろうか、と。
 まあ、遠隔地の方達が、形の上の、その事は出来ておっても、ね。実際の信心の上には、どういう事になるか、わかりません、ね。ただ、本当に、もうびっくりするようなおかげを頂いた。本当に、医者から見放された病人が助かった。本当に、御都合、お繰り合わせを頂いた。取れんはずの集金が集まった。という程度の信心で、とどまったら、こんなに残念な惜しい事はありません。ね。
 だから、これは、私の四人なら四人の息子達の上に、かけられる私の願い、神様の願い、というものが、ね。段々、本当なものに、なってくるに違いません。ね。「なぜか」と言うと、そんな、難しい事じゃないですから、ね。
 けども、まだ、それに対するところの、「この集中する心」というか、ね。そういうぐらいに、「一生懸命になっていない」という事。だから、なら彼達が、その事だけに一生懸命になったら、見易い事だから、いうならば、親先生がしとった通りの事がしたり、出来たりするであろう、と、ま、思いますけれども。ま、親の目の、それこそ黒い間に、それが出来てくれれば、「親孝行」と、いう事になるのです。
 私が死んだら、おそらく出来る事でしょう。私がしとる事でも、たいして難しい事じゃないですから。ね。ね。んなら、例えば、皆さんが、何かに気付いて、親先生が、「あんなに日参、教聴」と言われる。「心行、家業の行」と言われる。ね。だから何かの機会に、本気で、その事だけは、ひとつ自分のものにするぞ、という気になったら、見易う出来る事なんです、ね。
 その、あまりにも、やろうと思えば出来る事だから、いつでん出来る、といったような気持があるのじゃ、ないでしょうか。それこそ明日は、何時の汽車に乗らなきゃならん、というのに、ね。いうならば、前の晩から準備をしとく、といったような心掛けが、ないのじゃないでしょうか。これは、うちの息子達の上に、それが、ま、言える訳です。ね。
 神様は、目には見えません。声もありません。姿もありません。疑えば、限りがないのですけれども、疑ごうてる訳ではないけれども、ね。神様が、いちいち、いうならば、「口上」言いなさらん。私も言わん。それこそ、「天地のように生きたい」と思うとりますから。ね。
 あんた、どうして今日は十分遅れたの。ね。例えば、嫁御をつかまえて、これだけは、「あんたどうして起こさじゃったの」と、まだ、いっぺんでも、私は、言うた事はありませんです。ね。難しい事でばしあるの。こんくれな事が出来んで、「どうするの」と、まあ言うても、えゝ、わけですけれども。私は、もう、「天地のように生きたい」と思うとりますから、言いません。ね。天地もおっしゃらない。
 けれども、その天地を信じ、その親を分からしてもらう為には、親の言う通りの事が、出来なければ、私の言うておる事の全てが、分からないです、欠ける、です。ね。疑えば限りなし、恐るべし。ね。疑うておる訳ではないけれども、半信半疑であったら、やはり恐るべし、という事に、なってくるのじゃないでしょうか。ね。
 昨日は、正義先生の姉さんが、小郡におります。昨日お参りして見えてから、もう本当に、昨夜は、「広大なおかげを頂いた」というわけです。「どうした」と言うたら、もうあぶなく火事になるところでした。
 もう朝の三時頃、起こされるから起きたところが、お店をしとられる前に、あのう何ですか、今、ジュースやら、あげんとがズラット並べてあるでしょうが。あの百円入れて、こう出てくるのが、ありましょうが、あれは、何ち言うの。あれが燃えよったげな。あれは、こう何か、ライターで火をつけりゃ、入れとる百円が出てくるげなですね。ね。
 だから、その中に入っとるお金ば、誰か取ろうとしてから、火事になっとるとです。そいが、上にはテントがしてあるげなけん。もう、テントまで燃え移っとったら、もう、おしまいじゃったけどね。その燃えよる時に、丁度、通り合わせた車の運転手さんがね。自分の何か、消火器で消してもろうて、起こしてもろうた。もう本当に、「広大なおかげ頂いた」と言うて、昨日、御礼のお届け、しておりましたがね。
 信心しとれば、眼には見えんけれども、それこそ、まあだ、おかげ頂いとる事は、いっぱいあるんです。お互いが、そして、そういう眼に見えたり、気がついた時だけは、あっ今日は広大なおかげを頂いた。と言うのではなしにですね。
 眼には見えぬけれども、眼に見える以上に、聞こえる以上に、神の声を聞き、神の姿を見るような生き方をです。身に付けさせて頂いて、ね。眼に見えないところの、おかげに対しても、御礼が言えれるような、日々にならせて頂くと。神様がはっきりと、いうなら、疑えば限りなしと、けれども、また、信ずれば、限りなく信じて行けれる道が、開けてくるんです。
 それには皆さん、どうでも、教祖金光大神が教えて下さる、いうならば見易い、あまりにも、いうならば稽古、と、いうならば、もう「稽古」という言葉は、使わんでもいい位に、見易いです。身に付いてしまったら、ね。
 だから、身に付くまでが稽古である。それも、なら、なろうと思えば、誰でもなせれるような、いうなら行をです。身に付けさせてもらい、教えを身に付けさせて頂いて、ね。私共が、気がつかなかった。眼に見えないおかげの世界を、分からしてもらう。勿論、眼に見えるおかげの世界は勿論。それで初めて、おかげがまっとうする。いうならば、御礼が、まっとうの御礼にもなる事に、なるわけでございます。ね。
 なら、これは、私の方の子供達の事を言うて、皆さんの事を言うたが、ここで修行しとる先生方の場合でも、やっぱりそうです。もう、それに専念してるんですからね。そして別に、あ、朝昼晩の御祈念だけですからね。ま、そんなわけでも、ないですけど、いろいろ、別に御用もありますけども、その御用とても、そんなら、もう、それこそ、もう図の出るごたる御用ちは、ありません、ね。
 心掛けときゃ、ちゃんと朝の御祈念にも出て来れる。昼の御祈念にも出て来れる。ね。研修にも出て来れるけども、その研修でも、御祈念にでも、出て来んような人達がある位ですから、ね。心掛けてないからです。ね。これは、ま、私をも含めて、ですけれども、ね。子供達だけじゃない、皆さんだけじゃない、修行生の方達だけじゃない。その気になれば見易い。その気になれば出けん事はない。という、いうならば修行を、お互いさせて頂いとる訳ですから、何かの機会にですね。
 ほんに、そうたい。何時の汽車に間に合わんならん、というのに、前から、ちゃんと準備しとこう、用意もしとこう、というようなね。心掛けを、私は、もってしなければ、本当に神様を、いよいよ、あっ成程、「間違いがないな」というような神様を頂くことは、出来んと思うですね。どうぞ。